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2日目  鳥海山登頂記
 あつみ温泉で目が覚めた。起きた瞬間に列車が止まっていると反射的に「事故か?」と思ってしまうのだが (→いい日旅立ち参照)、今日はそうではなく、ただ駅に停車していただけであった。時刻は6時を少し回ったところ、象潟まではまだ1時間半くらいある。
 因みにこの駅は昔、温海駅という名前であったが、観光業者に阿やすいJR東日本が、この美しい漢字を平仮名に改称してしまった。特に難読でもない漢字が、つまらない理由の為に平仮名になるのは、大変嘆かわしい事だと思う。
 寝過ごしてはかなわないとは思っていたが、眠気には勝てず、とうとう二度寝して象潟のすぐ手前まで目が覚めなかった。いつもの事ではあるが、どんな場所でも徹底的に熟睡してしまうのが僕の自慢であり、困ったところである。ただ、寝台ではよく眠れないという人の方が多い事は間違いないので、得な性分だと思っている。
 昨日も書いた通り、今日は東北の名峰・鳥海山に登ろうと思う。天気が優れなければ中止にしようと思っていたが、起きてみれば秋らしい晴天であった。鰯雲は雨の前兆と言われるがそうでなく、薄い層雲が覆っているだけなので、雨など降ろう筈もない。絶好の山歩き日和である。
最後尾の窓から見た鳥海山
 象潟駅の手前で、列車最後尾の窓から鳥海山を望んだ。どの客車でもそうだが、最後尾の貫通扉には窓があり、そこから望む景色はなかなかのものである。立っている事さえ厭わなければ、流れゆく景色を存分に楽しむ事ができる。鳥海山の山裾は海岸線まで広がり、辺りに高い山が無いだけにその風格は見事なものである。

 象潟には定刻に到着した。早速、駅前に出、しばらく待ってやって来たバスに乗り込んだ。このバスは鳥海山の日本海側最大の登山口である鉾立までを結んでおり、鳥海ブルーライナーという愛称が付いている。登山客はさして多くないが、バスそのものが小さいし、料金は\1500とかなり割高に設定されているので、赤字という事もないだろう。
鳥海ブルーライナー
 象潟駅を出たバスは数分で象潟の街を抜けて、鳥海山の山裾を走り始める。初めは大した事もなかったが、有名な奈曽の白瀑谷を掠める辺りから道がくねり始め、勾配も急になってきた。左手には雄壮な鳥海の山容が、右手には海を隔てて飛島が望まれ、既にして景色は相当に雄大である。ススキの穂が少し垂れ始め、黄金色の稲穂の波が揺れ、辺り一帯が少し茶味がかった色合いを呈し始めているのも、日本の秋らしくて素晴らしい。

 8時7分、2合目の看板の横を通過した。すぐ脇に湧き水の汲み場があり、ポリタンクを持った人が水を入れていた。
 坂道を登るに従い、眺めはさらに拡大する。また、道がくねっているせいで山容が時々刻々と変化してゆく。鳥海山は現在こそ活動を休止しているものの火山であり、この辺りの景観は全て鳥海山が作ったものであると言っても過言ではない。鳥海山頂から流れ出した溶岩が海を埋め立て、独特の長い山裾を生み出し、象潟のような多島海を作った。現在の象潟は陸地であり海ではないが、その事は後で話す。
だんだんと眺望が開けてくる
 40分程バスに揺られて8時23分、鉾立の駐車場に着いた。ここは鳥海山の5合目に当たり、標高は既に1100mを超えている。バスで5合目まで登ってしまうのは口惜しいが、象潟から登っていたのでは丸一日で下山できない。本格的な登山装備は持っていないので、これは仕方のない事である。有名な登山口だけあって、レストランや土産物屋、公衆トイレなども完備しており逆に興醒めだったが、僕も登山に関してはまだまだ若輩者だから、設備が整っている事は嬉しい。
 手洗いを済ませ、生まれて初めて登山者カードを書く。予定行路だけでなく、緊急連絡先なども万が一に備えて記したから、まるで遺書でも書いたような気分になった。何はともあれ、これで出立の用意は調った。少し緊張しながら8時38分、僕は登山道へと一歩を踏み出した。鳥海山頂が、まだ遙か遠くに思えた。
白糸の滝
 登り始めてすぐの所から「白糸の滝」が望まれる。無論、富士山のそれではなく、鳥海山にも同名の滝があるのだ。奈曽渓谷に向かって流れ落ちる、その落差はかなりのもので、富士山の白糸滝を凌駕しているが、岩場が切り立っていないので何段かに切れ切れて落ちており、迫力としては小さい。また、間近に見る事ができないのも口惜しい。しかし、奈曽渓谷の深い谷を隔てているが故の尊さのようなものが感じられ、登り始めたばかりではあるが、暫しの間滝に見とれる事となった。
 僕はこの登山で幾つかの目標を立てていたが、その一つに「標準時間の半分で登頂する事」がある。標準時間は4時間40分だったので、2時間20分を目標にしようと思いつつ、しかし初めから飛ばしすぎないように気を付けて登っていく。普通ならこれは大した困難ではないのだが、わざわざ目標に掲げなくてはならないのには理由がある。それは、今回の荷物の重量が20kgであるという事だ。バックパックに全て詰めているので、体への負担は少ないが、20kgはどう足掻いても20kgである。何を持ってきたかと言えば、大半が本である。旅の最中に読みたい本や各地の資料などを詰め込むと、いつもこれくらいの重さになってしまう。
 バスはさしたる混雑でもなかったが、登山者そのものは多い。特に目立つのが中高年の団体だが、服装や装備を見る限りどう見ても頂上まで登れそうにない人たちもいる。ひょっとすると、途中の御田ヶ原辺りで引き返すのかも知れない。御田ヶ原は鳥海湖を望む笙ヶ岳の山頂であり、鉾立からの登山道の一つ目のサミットである。僕はその人たち全てに挨拶をしながら登ってゆく。標準時間の半分を達成する為には、やはり普通の人の2倍以上の速度で歩かないと無理だろうから、額に汗しながら山道を軽く走る程の勢いで登り続ける。
 植生は鉾立から高山帯のそれであった。僕は植生と言っても、はっきりと認識できるのはクマザサくらいのものだから、路傍の繁みを占めるクマザサの割合で、如何なる植生かを見極めなくてはならない。
 子供の頃から大の生物オンチである僕は、同じ理科でも化学や物理、地学は得意中の得意なのに、生物だけはサッパリであった。小学校のテストでメダカの絵が載っていて、この中で雌のメダカはどれか、このヒレは尾びれか尻びれかなどと問われたが、溜息の出るような結果であったと記憶している。元々、生物には全く興味が無く、吉野の自然の中で暮らしていたにも拘わらず、自分から昆虫を捕まえてみようと思った事もなければ、鳥の鳴き声を聞いてその種類を覚えようともしなかった。僕は家庭教師をしていて「勉強とは、教える側のヤル気・技術云々より、やはり本人の心意気が最も肝要」との観念を抱いているが、自分にもそれが当て嵌まるように思う。地理や化学は流し聞いただけでも絶対に忘れないのに、生物だけはどんなに覚えようとしても、覚えるべき内容が頭に入ってこようとしてくれない。
白く立ち並ぶのが風力発電のプロペラだ
 そんな訳で、クマザサを見ながら気候を判断していたつもりだったのだが、後日調べてみると、鳥海山に生えている笹はチシマザサという種類で、クマザサではなかった。双方が生えている気候には大きな違いはないようだが、僕の植物への知識はそんなものなのだと痛感した。笹と言えば何でもクマザサだと思っていたのである。

 日本海沿いは冬の季節風を利用した風力発電のメッカのようで、連なった小高い丘の稜線に、白いプロペラが何十基となく林立している。しかし、僕は非常に視力がよいので見えたのだが、動いているのは半分程度で、後の半分は動いていないどころか、風上に向いてさえいない。冬の季節風を利用するので今はシーズンオフなのかも知れないが、稼働させておけば少しでも発電できるのだから、放置しておくよりは余程効率がよいだろうに、何故こんな事をするのかと思う。
賽の河原は、数少ないレベル区間だ
 9時20分、賽の河原を通過する。ここで鉾立を出て以来ずっと続いていた石段が一旦途切れ、レベル区間 (鉄道用語で水平な区間の事) となる。レベルとは言っても完全にそうである訳はなく、石段が無くても登れる程度の坂道という事だ。石段が再び始まるまでは約150m程ある由だが、石段が無いだけに登山道が何処なのかも分かりにくい。冬場は道を取り違えてしまう事もあるそうだ。坂が緩やかになるのは有り難いが、それが遭難の元ともなるのである。一見楽なものが、実はとんでもない爆弾を抱えているというのは、我々の実世界でもよくある事だ。無論、見るからして爆弾を抱えていそうな者が、予想通り爆弾を抱えていたという事の方が多いだろうが。
 しかし、今は完全に雪など解けきり、草地と岩肌が露出しているから遭難などの心配は皆無である。それに、溶岩が冷えて固まった事が一瞥して分かる、ゴツゴツとした岩の塊がそこかしこに点在する光景は、火山に登らないとちょっと見られる光景ではない。
陸続きではないかのように見える男鹿半島
 ここらまで来ると、海の向こうに男鹿半島の姿が望まれ始めた。ここから男鹿半島までは直線距離にして約100km離れているが、有名な寒風山や男鹿半島最高峰の本山まで見渡せる。さすがにこの距離ではくっきりという訳にはいかないが、海に突き出た半島の様子が良く分かった。
「へぇ、あれが男鹿半島?何だか、満潮の時は歩いて渡れない島みたいねぇ」
 賽の河原で休憩中だった年配のご婦人が呟くのが聞こえる。確かに何も知らずに見れば、そう見えない事もない。僕も鳥海山に登っていて初めて抱いた感情が「やっぱり、日本は地図の通りの形をしているんだなぁ」であった。頭の中では、それは本末転倒じゃないか、何を言っている、と思っていても、心は素朴に、山の自然に抱き込まれてしまう。

 さて、そうこうするうちに賽の河原を出外れ、再び石段が始まった。放浪の俳人・種田山頭火の句に「分け入っても 分け入っても 青い山」というのがあるが、当にそんな感じである。一年草は既に枯れ始めているが、多年草はまだまだ青い。長い冬を生き延びるに充分な栄養分を、今の内に作っておかなくてはならないからだろう。
 先に歩く人たちを次々に抜かす。こんにちは、と声を掛けると、特に中高年の方々は「おう、やっぱり若い者は達者ですな」「ほら、元気の良いお兄ちゃんだこと」などと返答してくれる。そう言ってもらった手前、息が上がった様子など見せられないから、つい格好を付けてヒョイヒョイと歩いてみせる。この時は気が付かなかったが、これが結構な負担になっていたようなのだ。我ながら、見栄というのは怖いものである。
 しかし、登山者たちは概して愛想……と言うよりも、礼儀が良い。また、元気がある。一般的には社交性が無いと言われる僕と同年代のグループでも、声を掛ければ一斉に威勢の良い挨拶が返ってくる。非常に清々しい。正反対というイメージのある鉄道ファンたちも見習って欲しいものだ。山に登るには、技量や体力も勿論大切だが、やはり人とのコミュニケーションを充分に取る事こそが大切なのだという証拠ではなかろうか。

 暫し歩くと、石段が尽きてガレ場となった。ガレ場とは石塊が転がる斜面の事で、当然のように歩きやすさは石段より劣る。踏み固められているので一歩踏み出す毎に崩れたりはしないが、時折足の下で石塊が滑り、思わず前のめりになる事もあった。しかし賽の河原を出て20分強、目標である標準時間の約半分で、僕は山小屋のある御浜に着いた。ここで登山道は吹浦(ふくら)からのルートと合流する。ここには、登山道を跨ぐ鳥居まで設えられており、僕も一礼してからその鳥居をくぐり抜けた。
鳥海湖と火山地形
 ここが鳥海山の中央火口丘である。中央火口丘という単語は聞き慣れない方も多いと思うので解説しておくと、つまりは旧火山の火口で小規模な噴火が起こった際、それにより生じた小さな火山を言う。鳥海山の場合は、旧火山、則ち鳥海山を形作る大噴火をした際の火口 (現在の鳥海湖) のすぐ側にある小高い丘状の、此処、御浜が中央火口丘という事になるのだ。
 尚、勘違いを防ぐ為に記しておくが、現在の鳥海山頂は新火山の新山であり、ここが今日の目的地でもある。鳥海山は典型的な二重式火山であり、その歴史を簡単に説明すれば、旧火山が噴火して鳥海山の原型 (今僕がいる地点。海抜約1600m) を作った後、当時は中腹であった地点から新火山である新山が噴火し、現在の山頂である2236mの高さを築き上げた。一口に書いたが、この間に数万年単位の時間が経過している事は言うまでもないだろう。
鳥海湖を別角度から。月山が見えている
 富士山も、中腹に宝永山という噴火口があるが、あちらは鳥海山と順序が逆であり、中央の火山が何度となく噴火を重ねて標高を高め、現在の姿を作った後で、中腹の宝永山が噴火したのだ。山の歴史にも起承転結があり、調べていると面白い。
 眼下に望まれる鳥海湖は、柔らかそうにうねる草原に囲まれて佇んでいる。付近にはさして大きな岩などもなく、教えられなければ、ここが昔の火口だなどとは思わないかも知れない。少し目を移せば酒田の街や港が見え、遙か南方には月山の姿も望まれる。空の雲は秋で、鳥海湖に雲の影を落とし、草原は去りゆく夏を惜しんでいるかのようだ。また数千年、数万年の年月が流れた時、この景色も再びの鳥海山噴火により今とは変わってしまうのだろうか。
御浜からは下り坂が始まる
 さて、先を急がなければならぬ。雲を映す黒い鏡のような鳥海湖に別れを告げ、尾根伝いの登山道を辿ってゆく。間もなくして、道は下り坂になり始めた。
 「下り坂」などと書けば、山登りの最中ではなかったのか、ひょっとして、登山を投げ出したのかと思われてしまうだろうから、一応書いておこう。先にも書いた通り、鳥海山は複式火山であり、外輪山の中に新たなる山頂が聳える形となっている。今まで居た御浜が中央火口丘、つまり外輪山のサミットなのであるから、ここから先は下るより他ない。山頂はまだ遙かに上方であるが、いわば外輪山から中央山に乗り移るところであるから、ここでは道が下るのだ。こちらとしても、せっかく位置エネルギーを蓄えたのに、それを放出してしまうとは勿体ない気がするが、選択可能な道はこれ一本であるから仕方ない。
御浜付近を返り見る
 下りになると、スピードが上がる。山登りは下りの方が難しい、とはよく言われる話だが、歩きやすいのはやっぱり下りで、振り返ってみた時の距離感が違う。つまり「まだあれから○分だから、これくらいしか歩いていないだろう」と思っても、下りになっているので予想以上の距離を歩いている事に気が付くのだ。

 下りではあるが尾根伝いなので、左右の視界を(ふさ)ぐものはない。しかも、灌木さえ少ない一本道なので、見通しがよい。ここまで来ると、人もぽつりぽつりとしか居ないので、山を歩いているという気がする。やはり、高年齢層の多くは御浜で引き返すようだ。
 男鹿半島が尚もよく見えてくる。地図上では、単調な日本海岸に変化を持たせようと誰かが取って付けた瘤のようにしか見えない男鹿半島も、こうして見ると意外に長く、そして陰翳に富んでいる事が分かる。その手前の海上を、秋田港を出港したばかりらしい、白いフェリーが進んでいる。尤も、この遠さでは航跡さえも見えず、時間と共に、ゆっくりとその場所を変えていくので、進んでいるのだと分かっただけの話である。
 鞍部、つまり下り坂が尽きて再び上り坂が始まる辺りで、大学生らしい登山サークルか何かのグループが休憩していた。標高は約1700mである。ここでかなりの人たちが休んでいるので、僕はひょっとすると、と思ったが、予想は当たっていた。ここからしばらく行った所から、鉾立登山道最大の難所が始まるのだ。名を、八丁坂という。
 殆ど崖のような区間もあったが、登る事そのものが厳しいような区間はなかった。しかし、後から地形図を見てみると、この付近で等高線は極めて混み入っており、坂の急な事が分かる。登山道は、その坂道を等高線に対して斜め60°くらいの角度を付けながら登っている。そうでないと登れない勾配なのだ。

八丁坂を登ると、さらに視界は開ける
 八丁坂を過ぎると、視界が一気に開け始めた。先程通ってきた登山道が、後方に細い線となって連なっているのを見ると、我が足のみでここまで歩いてきたのかと、胸が空くようである。これが登山の醍醐味なのであろう。僕は、登山に関してはまだまだ素人であり、一般論を述べられるほどの知識も経験も無いが、この辺りは鉄道による旅とも似通っている所があるので分かるような気がする。と言うのは、登山の楽しみは何も、頂上に着いた瞬間の爽快感だけではないのだ。勿論、それが最大の感動である事は間違いないだろうが、人によっては違うかも知れないし、登山道で珍しい草花を愛で、景色を眺め、休憩中に見ず知らずの人と打ち解け合う、これも登山の中の、重要な楽しみである。登山は点の楽しみではなく、線、或いは面の楽しみなのだ。
 則ち、線というのは目的地までのルート、面というのは目的地までの付近一帯の事であり、線なら1次元、面なら2次元の旅という事になる。これは鉄道の旅も同じで、目的地までの車窓を楽しみ、道中の出会いや味覚も楽しみの一つとなる。
 結局、目的地のみしか知らないで「どこどこに行ってきた」などとはしゃぐような旅行とは、そもそもディメンションが異なるのである。こういうのは、0次元、とでも言うべきなのだろうか。確かに、効率はよいだろうし、見たい場所のみが短時間で見られるが、個人個人の興味の視点が一切無視され、全員同じ景色さえ見ていればよい、という事になってしまう。これは非常に嘆くべき事では無かろうか。窓の外には遙か下方に山河が見え、「富士山はどこ?」などと言っているうちに降下を始めて、間もなく羽田に舞い降りる飛行機なども、やはり点の旅行に過ぎないと言える。

 さて、八丁坂を登り切って暫く行くと、七五三掛(しめかけ)の分岐点に出る。ここで登山道は二手に分かれ、左の道は千蛇谷の谷底を通って御室の登山小屋に出るルート、右の道は標高2千メートルを超える外輪山の尾根を通りながら御室小屋に至るルートだ。御室小屋というのは、新山、つまり鳥海山の山頂のすぐ下に設えられてあるもので、予約しておけば宿泊や食事も可能である。収容人員も200人と非常に大きく、鳥海山最大の山小屋である。山頂へは、ここを通らなければ行けないので、どのルートを通っても、この小屋には出る事になる。
 僕が選んだのは後者、則ち外輪山ルートだ。ナントカと煙は高い所が好きと言うが、僕もその性向があるという事だ。こちらの方が眺望が開けるので、険しさでは千蛇谷ルートより勝るが、どうせならこちらにしようと決めた。まだまだ足は大丈夫そうである。
登山道は険しさを増す
 分岐点からも上り勾配は続き、一つ目の外輪山頂である文殊岳で標高2千メートルを突破した。ここで暫く写真撮影と水分補給の為に休憩する。新山の山頂が間近に聳えているが、その間には千蛇谷の深い峡谷が横たわっている。また、反対側はと言えば、やはり傾斜の急な斜面で、草が覆い繁っているので心理的には抵抗感がないが、一歩足を滑らせればどこまでも転がり落ちてゆくような地形ではある。
 長居は禁物である。僕には、規定時間の半分という、過大な目標があるのだ。
 今までは、それなりに先が見通せた登山道だったが、この辺りからそれができなくなってしまった。背の低い松が登山道にもかかっているので、遠くからではどこに道があるのか分からないのだ。無論、所々に登山者の姿はあり、サミットには休憩している人の姿も見えるので、全く行路が分からなくはないが、道がどう続いているかは殆ど分からない。
吸い込まれそうな急崖に沿う登山道
 しかも、前半にやはり飛ばしすぎた為か、この辺りから足取りが重くなり始めた。気分もだんだんと暗くなってくる。それでも、他の登山者よりは速いペースで歩いているのだが、時計の針を睨んでいると、初めよりかなりペースが落ちたと感じる。長距離を得意とする僕にとって、これは屈辱的な事だ。
 僕は元水泳部だが、1500mを泳ぐ時などでも、初めの100mはある程度飛ばすが、その後は自分の遅筋線維が丁度最大に働く程度の速度で泳ぎ続ける。ラスト100mは、またラストスパートをかけるので話が変わるが、100m〜1400mの間は、100mのラップで比べてみても殆ど変わらない。僕の公式記録であれば、この間の変化時間は2秒程度である。
 つまり、始めから終わりまで、殆ど同じペースを守るのが、長距離の基本なのである。なのに、自分で気付く程にペースが落ちていては、この後どうなるかの保証はない。
登山道は尾根伝いに通っている
 けれども、景観はどんどん美しくなってゆく。この付近の崖下に万年雪を見た。斜面が緩やかになった辺りの窪地に、凍った水が湛えられており、それが日光に照らされて、白とも銀色ともつかぬ色に輝いている。
 新山側の斜面には、先述の御室小屋が見え始め、千蛇谷廻りの登山道が、薄緑色の斜面を横切っている。見る限り典型的な火山地形であり「標高ではアルプスやヒマラヤには負けるものの、プレートによる造山運動の結果としてできたヤツ等にはこれ程の景観が作れまい」と得意になる。アルプスもヒマラヤも日本列島も、大きなプレートの会合する地点にできている為、急峻な地形である事には間違いないのだが、アルプスやヒマラヤの標高は、主にプレートどうしが押し合う力によって片方のプレートが持ち上げられた結果できた山地だ。これに対し、日本の山々の殆どは、プレートが擦れ合った熱によって発生したマグマが吹き出して固まり、それが何度も繰り返されて積み重なったものである。標高に於いては及ばなくとも、日本の山は「自力でのし上がった」という感じがあるので、力強く、また頼もしい。
新山山頂が間近に見えてくる。御室小屋も見える
 右側、則ち外輪山の外側を見てみると、遙か彼方に月山が、その秀麗な姿を構えている。ただ、月山の標高は1984mで、既に僕が居る地点より低い。しかし、山高きが故に尊からずと言うように、その姿は威容に満ち溢れていた。
 月山。いつか登ってみたい山である。
 登山道には、背丈より遙かに高い巨石がゴロ付き、険しさを増している。登山道は忠実に尾根を辿ってゆくから、左右共に急斜面、という状態が長らく続く。
 いよいよ、標高2159mの行者岳に到着する。この手前で、中年女性のグループを追い抜いたが、この方たちはペースを考えるに、前日から山に入って御浜の小屋で夜を明かし、今朝出発したのかも知れない。なかなかタフなおかーさん連中である。僕が挨拶をすると、息を弾ませながら返事をして下さった。
新山山頂を200mm望遠レンズにて撮影
 さて、ここを過ぎるとすぐに登山道は再び二手に分かれる。右手がこのまま外輪山を周回するコース、左手が新山山頂に向かうコースだ。ここを左の道に入る。
 道は急な下り坂になって、外輪山の内側の斜面を下り、一気に御室小屋と同じレベルに達する。が、ここで僕の左足がとうとう悲鳴を上げた。別に大した症状ではないが、長らくの上りで疲れていたところへ、いきなり下りが始まったものであるから、足も驚いたのであろう、左(ふく)(はぎ)が攣ってしまったのである。咄嗟に前につんのめりそうになるが、斜面の岩に掴まって、何とか事なきを得た。
 ともかく、ゆっくりと坂の下まで下りてゆき、そこでストレッチを行う。水泳部時代、何度となく足を攣った経験のある僕なので、手慣れたものである。
巨大な万年雪のドーム
 ここからはほぼ平坦であり、今まで見た物とは比べ物にならない程巨大な万年雪のドームの横を通って、とうとう御室小屋に着いた。時刻は11時を回っている。
 もう、ここまで来れば一気呵成だ。休憩など無用である。
 無骨な火成岩のガレ場から成る、新山山頂への道を、僕は早足に近いペースで登った。登山道は、勾配を和らげる為に、斜面を巻くようにして作られているようだったが、もはやそんな事はどうでもよくなっていた。一刻も早く登頂したい。
 心中からは邪念が消え去り、ただこの山を制するという思考のみが循環していた。
 そして、11時26分。
鳥海山頂から見た早池峰山
 とうとう登山道が尽き、僕の視界が完全に開けた。天地開闢(かいびゃく)の瞬間、などと言えば大袈裟すぎるだろうが、まさに別世界に躍り出たような心持ちである。
 目標であった2時間20分には遠く及ばなかったが、2時間48分、標準時間の約60%の時間で登頂する事ができた。それも、荷物重量は20kg。かなりの重装であったが、登頂直前に左足を攣った以外は何事もなく、鳥海山登頂は無事成功と相成った。

 さて、これだけ長々と僕の登頂記にお付き合い下さった読者の皆様に、山頂からの眺望をお届けしたいと思う。
象潟を俯瞰する
 まず目に付くのが、やはり月山であり、奥羽山脈の山並みの向こうには岩手山、それに早池峰山。さらに北に目をやれば、男鹿半島の寒風山は無論の事、森吉山に遮られて見えないだろうと思っていた岩木山もが、その姿を現しているのだ。これらは、何度も鳥海登頂経験があるらしい年配の登山者に伺ったもので、僕が調べた事ではない。そうでなければ、まさか鳥海から岩木山が拝めるとは思ってもみなかった。岩木山は、大変に形の優れた東北を代表する名山であり、五能線、津軽鉄道などの車窓からも眺められる、僕の大好きな山であるだけに、愛着も強い。
 さてここで、バスの中で「後で話す」と記した、象潟の謎についてお話ししておこう。
 鳥海山頂から日本海側を見下ろすと、象潟の街が一望できるが、その一角に、田圃の真ん中に小島のような地形が飛び出しているのを見る事ができるだろう。一体これは何なのか。
 一言で言ってしまえば「島」である事に間違いはないのだが、それでは、田圃の真ん中に島とは如何に、と反論されるであろうから、ここに起こった珍しい出来事をお話ししよう。
 奥のほそ道で芭蕉が象潟を通った約100年後の1802年、事件は起きた。当時、象潟はいつもと同じように、海の中に多くの小島を浮かべていた。そんな昼下がり、突如象潟地方を巨大な地震が襲った。この地震は象潟大地震と呼ばれている。実は、この地震こそが、この不可思議な地形を生み出した張本人なのだ。
 この地震によって、象潟地方の地盤は約2メートルも持ち上がったのである。これは何を意味するか……そう、浅海が陸地と化す事を意味するのである。
 たった数時間の内に、海が消えて陸になった。地震のメカニズムなど知る由もない当時の農民たちは、如何ほど驚いたであろう。仏様がお怒りになられているのだとか、その怒りを鎮める為に生け贄を捧げなければとか、きっと様々な討議がされたに違いない。
 それはともかくとして、田圃の中の小島、象潟の地形が、如何にしてできたか、ご理解頂けただろうか。つまり、元は海底だった所が今では開墾され、水田に変わっているだけの話なのだ。今、こうして、象潟を高みの見物していると、200年前の光景が蘇ってくるようだ。波穏やかな海に浮かぶ数多くの小島。どの島も覆い被さる松を頂き、その色の対比は、松島以上に見事であったかも知れない。
 こうして昔の海岸線を類推したり、その光景を目に浮かべられるのも、登山ならではの楽しみだろう。机に向かって地図を広げていただけでは、いくら想像力が豊かでもここまでリアルな想像はできないだろう。
 30分程休憩して、山頂を後にした。ここからは下り坂が中心となるので、再び足を攣らないように気を付けなくてはならない。一度足を攣ると、続け様に何度も攣ってしまう事も経験済みだ。
 しかし、体力的に楽である事は間違いない。蓄えた位置エネルギーを放出しながら進めるので、スピードがつき過ぎないように抑制する他は力が要らない。
七高山頂から見た飛島。手前の白い物はフェリー
 あっという間に御室小屋に着くが、ここから少し登りに入る。と言うのも、御室小屋は外輪山と新山の中間に建てられているので、標高は新山が2236m、外輪山の最高峰である七高山が2229mであるのに対し、御室小屋の標高は2170m程度である。つまり、今下りた標高とほぼ同じだけ、再び登るのであり、何だかバカバカしい気もするが、これ以外にルートはないので黙々と足を進めて12時半頃、七高山山頂に到着した。ここでまた暫しの休憩を取るが、この時点で僕の持ってきた水分が底を突いた。僕は500mlのペットボトルにジュースと、2リットルのペットボトルにスポーツ飲料を入れ、携えてきたのだが、それが全て無くなったのだ。今朝までは両者とも、満々と液体を湛えていたのに。
舎利坂の最高点から下方を俯瞰
 僕は人一倍の水飲みであり、その分、汗もよくかく。滴る汗の為にTシャツがぐっしょりと濡れ、水色のはずだったそのシャツが、濃青色になってしまった事もある。水泳部時代、炎天下で丸一日応援していた時などは、お茶やスポーツ飲料の2リットル入りペットボトル4本が空になった。
 仕方がないので、道中にもし沢があれば、そこで清水を汲む事にして再出発する。
 鳥海山には幾つもの登山道があるので、僕は行きと帰りで異なったコースを採る事にした。行きは日本海側の鉾立からアプローチしたが、帰りは内陸の矢島へ下りようと思う。矢島は、由利高原鉄道の終点駅でもあり、この鉄道の愛称は「鳥海山麓線」である。これを行きがけの駄賃ならぬ、帰りがけの駄賃に乗破して帰ろうという魂胆なのだ。
舎利坂の急角度がお分かり頂けるだろうか
 登山道はいきなり、この矢島ルート最大の難所である舎利坂に出た。この舎利坂は急角度のガレ場が200m近くに亘って続いており、何本かある鉄鎖の命綱を伝わないと通行はほぼ不可能である。足下が不安定であり、さらに、角度はもはや40°程度ではないかと思われる程だ。もしバランスを崩して転がり始めたら、恐らく斜面が緩やかになる地点まで、止まる事は無いだろうと思われた。
 下から登ってくる人たちとすれ違うが、皆、無言だ。マナーの挨拶は決して忘れない、極めて礼儀正しい登山者たちをも沈黙させる程の天嶮なのである。無論、僕も挨拶をする余裕など無く、足下を踏み締め、少しずつ下りていった。
9合目付近から山頂を振り返る
 しかし、坂の中間には平地もあって「舎利坂中間」の碑も立っており、ここで僕はその急斜面の写真を撮った。また、上りの方には「もう、ほんの少しですからね」などと声を掛けた。ここから七高山までは、距離にして僅か200m程度なのだが、今まで山道を上り続けてきた登山者にとってこの舎利坂は、当に心臓破りの坂なのである。
 ようやく舎利坂を下り終え、登山道は谷伝いに進んでいく。この道も、かなりの悪路ではあった。と言うのも、どこが登山道なのか、見当が付かないのである。急な渓流の岩場を下ってゆくのだが、要所にペンキで登山道の位置が示されてあるとは言え、ややもすると道を取り違えてしまう。上りは、目的地が定まっているので分かり易いが、下りは目的地も茫洋としており、道を取り違える可能性も高くなる。
取水に成功した沢
 喉が渇いてきたが、生憎、まだこの標高では沢など無い。もう少し下ればあるはずだと自分に言い聞かせて、岩場を下りてゆく。
 七ッ釜で、ようやく取水できそうな沢を発見するが、その沢までの道が、これまた非常な悪路である。僕は登山道の隅に荷物を降ろし、ペットボトルを提げてその道を歩んだ。しかしその甲斐あって、沢には清冽な清水がこんこんと流れており、僕はペットボトルに入れる前に、とにかく一口、手ですくってその水を飲んでみた。その美味い事!
 これが本当の水の味だと思い知らされる。僕は顔を洗い、両手で清水を掬っては飲み、暫しの休息を楽しんだ。ペットボトルにも満杯を取水できたので、これで勇んで下山できる。
8合目付近の空
 8合目付近で見上げた空には、薄い筋状の雲が棚引いており、遠く離れ往く山頂と、完璧なまでのコントラストを描き出した。道端にはリンドウの青く可愛らしい花が咲き、僕の登山の成功を祝福してくれているかのようだった。
 ここからも、それなりに急な下り坂はあったが、七ッ釜でリフレッシュしているので少しも苦にならない。それに、急とは言っても、舎利坂に比べれば赤子の手を捻るようなものであるから、順調に下山してゆく。
 7合目の御田には、その名の通り田のような平地が広がっているが、これは勿論水田ではなく、湿原である。登山道はその上を木道で渡る。
ここが御田だ
 空の青、雲の白、夏の名残を留めて濃緑に光る樹々、これらの調和の中に伸びてゆく緩やかな木道は、人間がこの大自然に対して可能な最大限の干渉を象徴しているかのようだった。この木道は、幅こそ細かれども、人の往来は充分に可能だ。これが、我々に許される最大限の自然破壊ではなかろうか。いくら技術が発達したからといって、山を切り崩し、その土砂で谷を埋めて整地し、そこにニュータウンを作るなど、分不相応な行為であろう。
 湿原は大した広さでなく、また火山地形であるから辺りには火成岩がゴロゴロしており、釧路湿原のような広漠感は無いが、枯れ始めた一年草と、まだ冬支度に励む多年草が織りなす微妙な色彩の違いが何層にも重なって見えるのが美しい。また、僅かながら開水面もあり、茶味がかった緑色の湿原に於いて、そこだけが空の色に輝いている。
木道の上を歩く。実に清々しい
 矢島口登山道の特徴としては、平坦部分と坂道部分のギャップが激しいという事だろう。
 僕が登った鉾立登山道は、途中数ヶ所の平坦部分はあったものの、大体上り坂が連続しており、勾配も比較的急ではなかった。しかし矢島口ルートでは、平坦が長く続いたと思ったら突然急な坂道に入り、それが終わればまた平坦になって……を繰り返すのだ。僕は矢島口を下山に選んだから良かったようなものの、これを登山ルートに選んでいたら、標準時間の半分どころか、標準時間で登頂できていたかさえ覚束ない。
 だんだんと沢の幅が広くなり、6合目も過ぎると、矢島口五合目にある祓川ヒュッテの赤い屋根が見え始めた。もう一歩だと自分に言い聞かせて歩く。ここまで来ても、まだ標高は1300m程度もあるから、眺望は依然として開けている。
祓川ヒュッテが眼下に見え始める
 最後の坂道を下って、竜ヶ崎湿原に出た。鉾立コースには丘陵地形が多かったが、矢島口コースには湿原が多い。御田と同じように、湿原に架けられた木道を歩んでいく。こうしていると、あの有名な尾瀬ヶ原を散策しているようだ。湿原への影響を最小限にする為の木道は、もはや竜ヶ崎湿原の風景と同調しきっている。これがアスファルトやコンクリートの遊歩道だったら、完全な異物と化していただろう。恐らくは、少しでも自然を自然のままで留めたいという人間の意向を湿原も感じ取り、木道はその中に受け入れたのだろう。
 祓川ヒュッテの到着時刻は15時35分。下山開始から3時間以上が経過しており、これは標準時間より遅い。途中の七高山で休憩を取ったり、七ツ釜付近の沢で水を汲んだりしていたのがタイムロスの原因となったのだろう。しかし、今後の行程には何ら影響を及ぼさない。今夜はムーンライトえちごに乗れば良いだけなので、由利高原鉄道の矢島駅を17時37分に出る列車にさえ乗れれば大丈夫である。
竜ヶ崎湿原にて
 しかし、少しは心配だったので、ここから矢島の駅まで歩いてどれくらい掛かるかを地元の人に訊いておこうと思う。丁度、矢島口の駐車場で遅い昼食を取っていた地元の爺ちゃんが居たので、道順と共に訊いてみる。
「う〜ん、兄ちゃんくらいの人なら、30分くらいかな」
 爺ちゃんは僕にそう言ったので、それなら予定より1本早い列車にでも乗れそうだと安心し、気を付けてキノコ採りを続けて下さいと言い残して歩き始めた。
 既に標高1000m程度であるが、それでも高原のムードはまだ続いている。僕が歩いているのは林道だが、舗装された2車線の道路であり、歩きやすい。ここまで下りてくると、舗装道路の有り難さを感じなくもないが、無論、素直には喜べない。
 さて、そうして歩き始めた僕だったが、背後から車の音がしたので振り返ってみると、一台のワゴン車が近付いてくる。恐らくは鳥海山に登ってきた人だろうな……と思っていると、その車は僕の真横で止まるではないか。僕は運転席を覗き込むと。
「乗っていく?」
 何と、山頂で一緒にお話しさせて頂いた方であった。僕はいつもの厚かましさで、遠慮無く乗り込ませて頂いたのだが、一つ告白しておこう。
 僕は、人の顔を覚えるのが至極苦手である。覚えようと努力すれば覚えられない事もないのだろうが、芸能人の顔や街で出会った人の顔など、数分もしないうちに忘れてしまう。と言うより、本能的に覚えようとしていないのだろう。全く逆の性質のものとしては、風景や道順などがあり、これらは特に覚えようとしていなくても勝手に覚えてしまう。信じてもらえないかも知れないが、僕にはこうした「記憶の特徴」があり、他にも、聴いた音楽や話は殆どそのまま思い出せるだとか (但し、気が抜けている時に聴いたものはロクに覚えていない)、神経衰弱などのカードの位置はほとんど覚えられないだとか、本を読んでいて感動した箇所はそっくりそのまま覚えてしまうだとか、幾つかの特徴があるが、本人は、どの情報を覚えてどの情報は切り捨てるかをコントロールできないので困っている。これができれば、便利極まりない才能だと思うのだが、実際は、聴いた漫才をそっくりそのまま復唱できても、テスト勉強した内容は半分程度しか思い出せないなど、厳しい面がある。
 閑話休題。そんな訳で、この方の顔も全く覚えていなかったのだが、何とかそれは悟られずに済んだ。
 この方は、鳥海山の内陸側の麓に当たる、山形県は真室川から来られた登山愛好家だという事。既に鳥海山は数十回の登頂経験があり、地元の山はほとんど登り尽くしたそうである。さらには、愛好者サークルの皆さんと、乗鞍、白山、白馬といったアルプスの山々、四国の剣山、九州の由布岳などにも登られているそうだ。今日も、真室川に一番近い百宅口や湯ノ台口から登らずに、わざわざ矢島口を選んでおられるのはそういった理由である。つまり、いつもとは趣向を変えようと思われたとの事。
 これは僕にも良く分かる。まだまだ登山は初心者な僕だが、旅では同じような経験がある。つまり、いつも東海道本線経由で上京してばかりいるから、たまには北陸本線経由や中央本線経由で上京したくなるのと同じ事だろう。
 道の上に被さる木に、トンビの幼鳥が留まっている。僕にはそれがトンビである事さえもはっきりとは分からないが、「見て。羽が全然傷んでないでしょう?あれは今年生まれた幼鳥ですよ」と説明して頂く。
 やはり車は速い。幾つものヘアピンカーブを、巧みなハンドル捌きで通り抜ける。さすがは登山愛好家の車で、前部座席の間、カーステレオやエアコンの計器板がある部分の上に、高度計・気圧計・方位磁針・外気温計などが取り付けられている。それも、かなり本格的な装置であった。僕は現在位置と照らし合わせた上で、かなり頻繁にそのデータをメモしておいたのだが、ここにそれを記したところで、理科の実験レポートのようになるのがオチであろうから割愛させて頂くが、高度と気圧の間にはこうもきちんとした関係が成立するのかと感心した。高度が下がるにつれて気圧が上がるのは当然だが、ほぼきちんと、ある単純な関係式に従って変化してゆくのだ。
 ところで、先程からかなり走っているのだが、まだ駅に着かない。どう考えても、もう歩いて30分掛かる距離は過ぎたような気がする。
「まだですか?さっき、駅までは歩いても30分くらいだって聞いたんですけど。」
「え?誰にそんな事聞いたの?とてもそんなものでは歩けないよ。まだもっと先だよ。」
 こうした事はよくあるので、驚くにも値しない事なのだが、一応解説しておこう。
 田舎のお年寄りの時間感覚というのは、一種独特のものがある。一言で言えば、時間の進み方が遅いのだ。
 だから、田舎で道を訊いた時などは注意しなければならない。
「こっちに行ったらすぐですよ」
 などと言われた時は、その目的地までに少なくとも10分以上は掛かると考えるべきである。何故か。もし目的地が、本当に「すぐ」あるのなら、この方はあなたをその場所まで連れて行って下さる事だろう。少なくともそうしないのだから、目的地は「一緒に連れて行くにはちょっと遠い距離」なのである。田舎のお年寄りにとって5分や10分歩くくらいは物の数ではないから、則ち、「すぐ」と言われても10分以上掛かると見なすべきなのである。
 今回も同じで、結果から言うと、歩けば3時間以上は掛かると思われた。距離にして実に20km以上。キノコ採りの爺ちゃんは、一体この距離をどうやって30分で歩けと言うのだろう……。
 何はともあれ、よくこの方に乗せて頂けたものであった。歩こうと思えば歩けるが、時間的には、車無しでは絶対に間に合わない距離である。
矢島駅正面
 こうして僕は16時前、由利高原鉄道矢島駅に到着したのであった。お礼を言って車を降り、まずは駅に入る。
 既に15時50分発の列車は出てしまっていたが、どうせ乗るつもりはなかったのだから問題ない。それより、駅前が何やら賑やかである。どうやら秋祭りのようだ。
「荷物なら、そこに置いておきなさい」
 声を掛けてくれたのは、この駅の売店業を委託されているおかーさん。荷物を置いても盗る人など居ない事は僕にも分かるので、構内の隅にある通路へ20kgの荷物の殆どを投げ出した。さて、おかーさんは売店の方へ戻ったかと思うと、お抹茶を立てて手招きしている。僕に御馳走してくれるというので、有り難く頂戴した。
 このおかーさん、なかなかの元気者で、アイスを買いに来た地元の中学生にも「はい、二人で300万円ね」と快活に笑う。未だにこんなギャグを素で言う人も居たんだなぁと思いながら、氷を浮かべた涼やかな抹茶を飲み干した。売店の傍らには、秋らしい花が生けてあり、やはりおかーさんの作品であった。
 街の散策に向かう。荷物はそのまま放置しておいた。尤も、貴重品類は全てカメラバッグに入れて携帯しているから、バックパックの中には大量の本と着替えくらいしか入っていないが。
 やはり、今日は秋祭りのようで、各地区毎に手作りの山車を設え、駅前には出店が並び、今夜は一晩中、街がお祭り一色になるのだそうだ。売店のおかーさんは「未だにそういうところは馴染めなくて」と言っておられたが、こうした伝統的な祭りが息づく街は少なくなってきているので、是非とも残して欲しいものだ。昨日の蛸島と言い、今日の矢島と言い、今回の旅ではさして有名ではない街の、個性的な一面ばかり見た気がする。
 ところで、街に出たのはこまうさぎ氏への土産を買う為もある。山形県は果実の王とも言われる「ラ・フランス (西洋梨)」の産地であり、日本のラ・フランスの80%が栽培されている。こまうさぎ氏はラ・フランスが大の好物であるが、スーパーなどでこれを買うと途轍もなく高い場合がある。ラ・フランスは栽培が難しく、原産地フランスでも、ほんの少量しか栽培されていないそうだ。
 しかし、本場・山形にも程近いこの矢島の街には、どんなスーパーや青物屋にもラ・フランスが並べられている。しかも僕が見つけた中で最も安い店では、1つ50円であった。
 駅に戻り、おかーさんと話しているうちに列車の時刻となった。見送りを受けて列車に乗り込み、16時45分、定刻に矢島を発車した。

刈り入れ間近の田圃の中を行く
 由利高原鉄道は元・国鉄矢島線であるが、昭和58年、国鉄再建法による廃止路線候補に名を連ねてしまった。あわやバス転換かと危惧されはしたが、奥羽山脈を隔てた太平洋側の三陸鉄道が第三セクターとして営業を開始、これが思わぬ大成功と相成ったので、矢島線も地元が出資して第三セクター化される事に決定した。
 区間はJR羽越本線との接続駅・羽後本荘から矢島までの23kmであり、全線単線・非電化。よくある地方のローカル私鉄だが、他の私鉄と比べて安いのが運賃で、羽後本荘−矢島間の23kmで550円。これは、都会に住んでいる人からしれみれば高いだろうが (京阪電鉄なら340円、東京急行電鉄なら270円)、同じ東北の私鉄どうしで比較してみると、勝負にならない程安い。他の鉄道会社の悪口を言うのは気が引けるので、具体的な名前は挙げないが、もし気になった方は調べて頂きたい。
だんだんと小さくなる鳥海山
 列車は刈り入れ間際の穂がたわわに実った水田地帯の真ん中を、急ぐ風もなく走る。空は晴れ渡り、如何にも秋らしい夕焼けが辺りを覆い始めている。もうすぐ、全てが金色に輝き初め、この里にも夜の帷が下り始めるのだろう。そんな平和な時間が流れている。
 国鉄時代の引き込み線や対向設備を取り払ってしまった駅が多い。これらは、駅に残る使われなくなったホームの位置や、地面に埋まったままの朽ちた枕木、丸くなったバラストが敷かれている事などから簡単に推測できるが、一々どこの駅に何があったかまではメモしていないので書く事はできない。
日本海の夕陽
 矢島から4つ目の久保田を出た辺りから、後方に鳥海山が望めるようになった。遙かに遠離ってはしまったが、先程まで自分はあの山頂に居たのだと思うと、また格別であった。次の前郷で列車交換。この駅は唯一の有人駅でもあり、タブレットを持った若い駅員が、先に着いていたこちらの列車からタブレット、則ち矢島−前郷間の通行許可証を持ち去り、後から着いた矢島行きの列車に渡す。その列車からは前郷−羽後本荘間のタブレットをこちらの列車に渡して、これで作業終了である。あちらの列車は、矢島の秋祭りに行くらしい人で、満員であった。
 鳥海山の姿が遠くなり、いよいよ日が暮れて、定刻の17時24分、終点の羽後本荘に着いた。ここからはJRの旅路となる。羽越本線から眺めた海に暮れゆく夕陽は、僕の心地よい疲れを忘れさせるような、優しい色だった。
花咲く旅路 了


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